尊くて大切な時間
引っ越したばかりの新しい地域は、何を見るのも新鮮。
前に住んでいた場所は雪があんまり降らない上に積もることもない地方だったから雪が積もっていることに感動してたんだけど、その感動も毎日毎日のことになるとだんだん感動どころじゃなくなってしまった。
ちょっと移動するのも大変。
車を出そうとするだけでも大変。
雪下ろしだけじゃなくて、車で走ってて窪みにはまってしまったりと散々。
わたしはただ助手席にいるだけだけど、恋人さんはわたしのために色々動いてくれてて、もちろん運転してるのも恋人さんなんだけど。
こうして動いてくれる恋人さんは頼りになるなあって毎日惚れなおしてたりする。
行動に関してだけでなく、姿も好き。
運転してる時の横顔とか、ものすごく格好いい。
じっと凝視してると照れ出しちゃうのもすごく好き。
うん。ただの惚気です。
言葉だけじゃ伝わらないみたいだから、歩くときは手をぎゅっとにぎってみたり、人目がないところで抱き着いてみたり、困ったことはすぐ相談してみたり……そういうことを誰かにすることなんて今まで一度もなかったわけで、いつだってずっと恥ずかしい。
でも、行動に移して表現するようにしてみたら、少しずつだけど伝わってくれたみたい。
それに、恥ずかしいけど、触れ合えるってことはすごく尊くて大切な時間だなって実感しました。
日本だけでも何億って人がいるのに、めぐり逢うことができて、お互い想いあう事ができて、その時その瞬間、一緒の時間を共有できてるって。
離れていた時より一緒に居るようになって、より幸せだなって感じるようになりました。
というわけで、尊くて大切な時間、という話でした。
経験と基準
今までの経験から、状況を判断することって日常に多くあります。
恋愛に関しても、それは例外ではないようです。
わたしにとっての恋愛というのは、これが初めてになりますので比較対象がありません。
ですが、恋人さんにとってはそうではありませんでした。
「わたし」を取り除いた本当のわたしは、寂しがり屋で構ってほしがりでもあるようだとぼんやり自覚しつつありました。
ただ、まだそれをうまく表現できずにいて、その気持ちを持て余してもいました。
忙しい
体調が悪い
恋人さんがそういう状態の時、頻繁に話しかけたり構われたいと思うことが良くないことだと思っていました。
でも恋人さんにとっては違っていて、「忙しいから連絡するなとは一言も言っていない」「寂しいなら寂しいと素直に伝えること」「構ってほしいと伝えることは悪いことではない」と教えてくれました。
そして「頻繁に話しかけてこないってことは、その時間に僕は必要ないってことでしょ?」「あの子はこういう時絶対一緒に居たがった」とも言われてしまいました。
必要がないから話しかけない
話しかけないなら、構ってほしい状態ではない
ということになってしまうらしい。
ついでに、何をするにも一緒に居て一緒のことをしたがる子が居たことも。
少し話を聞くだけで、寂しがりだったり構ってほしがる子の基準が「その子」になっていることがわかりました。
わたしは比較されるのが好きではありません。
わたしはわたし、他人は他人だからと思っているからです。
このひとはこう感じる。
でも同じ事をこのひとはこう感じる。
そんな風に、こういう時こうするという判断も基準も人それぞれだと思うのです。
「その子」の基準で判断されていたわたしは、「寂しいと感じていると後から言うけど、実際にその時に言ってこないし頼ってこないし一緒に居たがろうとしない子」という認識になっていたようでしたので、そんなの全く違う!と猛抗議しておきました。
どうにも、今までの恋愛は好きを強く押す子が多かったと恋人さんが語っていました。
それに対して、「君は本当に僕を好きなの?」とも。
毎日言葉で「好き」と伝えていても、全く伝わっていなかったようです。
恋人さんは「好きなら言葉だけではなく行動で示すものだ」という認識だったからです。
今までしたこともない恋愛は強敵です。
たぶん、こういった認識のすれ違いを重ねていくことで、世の中のカップルはお別れになってしまうんだろうなと感じました。
なのでわたしは、毎日いっぱい会話することにしました。
少しでもわたしを知ってほしいし、恋人さんのこともいっぱい知りたい。
どういう時に怒るのか、泣くのか、嬉しいのか、喜ぶのか……
片っ端から、全部知りたくて、でも全部なんてどう聞けばいいのかもわかりません。
それでも色んな話をして、毎日少しずつでも、些細でもいいから知りたい。
こうして、認識がすれ違ったらわかるまで話をする。というわたしたちのスタンスが出来上がりました。
たまにわたしも、恋人さんも、一人で突っ走った考えで暴走しちゃうこともあるけれど、会話って大切だなとわたしは思います。
ということで、経験と基準、という話でした。
もっと好きになってもらいたい
恋人さんはものすごくモテます。
男女ともに人気があるという表現が正しいくらいにモテます。
恋人さんの気持ちがわたしを向いていることを知っていますし、それを微塵も疑ってはいません。
疑ってはいませんが、嫉妬する気持ちは別です。
遠距離で逢えないのは寂しいものです。
それをわざわざ刺激するかのように、過去付き合っていた人と逢ってきたと言われてしまうと膨れ上がる気持ちがあります。
ずるい!
わたしは逢えないのに、どうして別れたそのひとは逢えるの!
逢いたいのに逢えない状態だったこともあって、その気持ちは強くありました。
割とよくある過去の恋人同士が「よりを戻す」ということは微塵も浮かびませんでした。
だってそのひとは、わたしの恋人さんを傷つける存在だったからです。
そして恋人さんも、傷つけられているのを受け入れている状態でもありました。
二人が過ごしてきた時間は、二人にしかわかりません。
その時の話を聞くことはできても、想いは共有できません。
わたしには、未だに恋人さんの大切なひとの基準がわかりません。
でも、大切にしてくれないひとを大切に想うのは、第三者のわたしから見ていてとてももどかしくて切り離したいものでもあります。
わかってはいるんです。
すでに大切なひとにカテゴライズされているひとを「切り離す」なんて恋人さんには無理なんです。
だからわたしは、この「嫌なひと」に負けないくらい、恋人さんに好きになってもらおうと決意しました。
「嫌なひと」と天秤にかけたって負けないくらい、大切で手放すことなんかできない存在になろう、と。
そのひとの相手をする時間があるなら、わたしとの時間を過ごしたいって強く想うくらいにベタ惚れで夢中になってもらおうと思ったのです。
というわけで、もっと好きになってもらいたい、という話でした。
過去付き合ったひととわたし
「過去付き合った人の話」ってなるとピクリと反応してしまうのが、恋心を抱いた以上避けて通れない部分かなと思います。
その過去が、あっさり終わった話ではなく続いている話だとしたら…?
その人との思い出話をする言葉は、とても優しくて思いやりがあります。
それだけ存在が大きくて、想いも強かったのだろうと思うとズキズキと胸が痛くなります。
その人はどれだけ大切にされて、どれだけの時間を過ごしたのだろうか?
恋心を自覚してからは独占欲にも目覚めてしまって、毎日が楽しさと共に苦い胸の痛みも感じるようになりました。
わたしのココロにはたったひとりしか居ないのに、このひとのココロには別の人も住んでいる…
恋愛感情ではなくても、大切な人はわたしにも居ます。
家族とか友人がそれにあたります。
でもわたしの恋人さんは、もう少し広い範囲で大切な人が居るのです。
とても優しいこのひとは、一度自分の懐に入ったひとを決して突き放さないのです。
そして自分の犠牲を厭わないひとなので、大切なひとであればどんなに振り回されても傷つけられてもぐっと抱え込んで耐えてしまう…
わたしは、恋人さんには毎日楽しんでほしいし、笑ってほしいし、一緒に幸せになりたいと思っています。
だから恋人さんが傷つくことは絶対に嫌なのです。
でもそのひとは恋人さんを平気で傷つけたり傷口を抉ってくるのです。
わたしにとって「嫌なひと」ができた瞬間でもありました。
わたしから見たら「嫌なひと」
恋人さんから見たら「大切なひとのひとり」
想い、共有していた時間はどうあっても覆るものではないと思います。
だから悔しい。
その時間をわたしと一緒にいてくれたら、絶対傷つけたりしないのに…と。
もし…なんてこの世にはないと思います。
だからどれもこれも必然なのだろうとは思います。
優しいこのひとのココロを守りたい。
幸せを感じるような時間をたくさん共有したい。
わたしは、そうココロに強く決めたのでした。
というわけで、過去付き合ったひととわたし、という話でした。
恋心を自覚した日
恋心は、多分もっと前に持っていたのだと思います。
でもその自覚は全くありませんでした。
ただただ、この人になら頼っても大丈夫なんじゃないかなと思うようになったのです。
その気持ちは日に日に膨らんできましたが、伝える方法がわからない状態でした。
そうして少しずつ、一日にする会話は増えていき、過ごす時間は長くなっていきました。
毎日が楽しくて、一緒に過ごさない時間に考えるのは恋人さんのことばかりで頭が占められる状態になっていました。
この気持ちが、恋愛の「好き」なんだろうな…
「ココロから信頼を寄せているひと」「素直な気持ちを言えるひと」だけではなく、「恋しいひと」になっているのを自覚したのは多分その時です。
出逢って会話をするようになって間もない期間ではありましたが、そう感じました。
恋心を持つのに時間は関係ない、というのを身に染みて知った瞬間でもあります。
好きになる切欠は書いている以上に無数にありました。
が、詳しいことまで書くのは勿体ないので、二人だけの秘密にしとこうと思います。
というわけで、恋心を自覚した日、という話でした。
自分の気持ちに素直になる
八方美人でいいと思っていた「わたし」の存在を大きく揺さぶった出来事は、今思い出しても不思議な気持ちになります。
学生のころから十何年という月日を「わたし」として過ごすことで、自分=「わたし」だと同一視していました。
でも、本当は全然違っていました。
わたしは「わたし」という存在とは全く違う、弱くて怖がりで臆病で素直じゃない小さな子どものままでした。
そんな自分でもすっかりわからなくなっていた本当のわたしを見つけ出して叱りつけてくれたのが、今の恋人さんでした。
相手にとって損がないように、心地良い言葉を意識することなく選ぶようにしていたわたしに対して、本当はどう思っているのか、自分の気持ちを自分の言葉で考えるように促してきた人は他にいませんでした。
「たぶんこう言った方が相手は気負わず済む」と思えば、特に何も考えなくてもその言葉を自然と選んでいたので、本当にわたしがそう思っているものだと勘違いをしていたのです。
そして、自分を偽っている自覚もなければ、指摘されるなんてこともない緩やかな付き合いをしていたので、言われなくても当然かもしれません。
でも、恋人さんは他とは違い、指摘してきました。
自分の気持ちに素直になりなさい
自分の気持ちがわからなくなっていたわたしにとって、その言葉は難しいものでした。
自分自身が今どう思っているのか、いちいち道筋をつくって考えないと導き出せない状態だったからです。
体調が悪くてしんどくて心細い時にでも心配かけたくないからと「大丈夫」と言うのではなく、「風邪引いたからしんどくて心細くて寂しい」と言うのが君の今の素直な気持ちでしょ、と恋人さんは教えてくれました。
誰にも頼ることができない。
自分ひとりで何とかしないといけない。
そう思っていたわたしにとって、寂しいという言葉は思うだけ無駄なことでした。
でも恋人さんは、わたしよりもわたしを分析して理解した上で「それは違う」と断言しました。
誰よりも寂しがりで構ってほしい気持ちが強いわたしの本質を見抜いていたのです。
自分というものをまるでわかっていないわたしに対して、根気強く言葉を選んで、本当はどう思っているのかを言えるように促してくれました。
それは、決して言葉を誘導するものではなく、ちゃんと自分の言葉になるまで待ってくれるものでした。
わたしが頼りたいと思える人に、恋人さんの名前が上がるようになったのはその頃からでした。
というわけで、自分の気持ちに素直になる、という話でした。
SNSの世界に飛び込むことで「わたし」が出来た
そもそも、わたしは「恋愛」に興味がなかったわけではありません。
恋愛漫画や小説を読んで、恋心に憧れた時期もあります。
でも「恋愛」は相手があって成立するものであり、ひとりではできません。
また、女性であるわたしは男性と恋愛するのが一般常識としてありました。
でもその「恋愛」の相手である男性に対して、わたしは良い感情を一切持っていませんでした。
幼少期から受けていた性的暴行
付きまとい、ストーカー
勝手に所有物にされる
セクハラ
都合が悪くなると全ての責任を負わされる
こうした状況をどうにか変えたくて助けを求めても、「勘違いさせるお前の行動が悪い」と言われてしまい、切り捨てられました。
誰にも頼ることができない。
自分の身は自分で守らなくてはならない。
そうしてわたしは、後輩・同級生・先輩・先生など、すべての年代の男性に対して好印象を持つことはなくなりました。
女性らしい恰好やスカートを穿かず、
男性と接触する機会を減らし、
必要最低限の事務的会話しか行わず、
愛想笑いもすることなく不愛想でいる。
そうすることで誰と噂されることもなく、何も起こらなくなって、平和な日常が訪れました。
穏やかな日常を数年過ごして、漸く、わたしは心のゆとりができるようになりました。
今から思えば、当時のわたしはかなり閉じこもった状態でした。
ただ何年もこの状態で過ごしていて、きっとこのままでは良くないだろうなという考えも持っていたので、顔を見ることも逢うこともないSNSの世界に飛び込むことにしました。
この勇気が、今のわたしに繋がる大きな一歩だったと思います。
勇気を出して仲良くなった人たちは、とても穏やかで優しい人たちでした。
そんな人たちに触れ合うことで、少なからず他人への恐怖が薄まり、性別を必要としされない安心感をたくさん得る事で、SNS上の相手が男性だとわかっても拒否反応を示すことが減りました。
人間、心にゆとりがないと他人に優しくなんてできません。
何年も穏やかに過ごすことでSNS上でのわたしは、誰にでも優しく、誰も特別扱いしない、穏やかで平等な人間となりました。
まあ、いわゆる八方美人ですね。
そうして日々を過ごすことで、現実の「わたし」も他人と関わるには八方美人でいいと思うようになりました。
社会に出て仕事をするようになっても、その「わたし」という人間性は大いに役立ちました。
だからこれでいい。このままでいい。と思うようにもなりました。
ということで、SNSの世界に飛び込むことで「わたし」が出来た、というお話でした。
「恋愛」に目覚めた話
わたしの大好きな恋人さんとの出逢いは半年前。
それまでわたしは、恋愛のレの字も自分には関係のないものだと思ってました。
恋愛は、あくまで本やドラマの物語。
そして友人の彼氏や彼女の話を聞いても、「恋してる人はキラキラしてるなあ」とか「人を好きになるって、嫉妬したり幸せそうに笑ったり一生懸命なんだな」という、あくまでも他人事でしかありませんでした。
誰とでも平等に、
誰とでも楽しく、
誰のことも嫌いではなく、特別好きでもない。
そんな人付き合いをして、わたしはそのまま一生を過ごしていけばいいかなと漠然と考えていました。
でもそれは、たったひとりによって簡単にひっくり返されました。
よくある、一目見てびびっときた!みたいな一目惚れでもない、とても穏やかな心境の変化だったように思います。
でも気が付いた時には、自分には恋愛感情なんかなくて一生そのままでいい…なんて考えは微塵も存在しなくなっていました。
誰かと同じじゃ物足りなくて
話しかけてくれるとすごく嬉しくなって
もっと一緒に居たいなあって思うようになって
こういうのを、多分、「心にその人が住んでいる」と表現するんでしょうね。
今までの平坦で穏やかな気持ちしか持っていないのが遠い昔のことに感じるくらい、感情を揺さぶられる日々になりました。
それは、笑ったり楽しかったりするだけじゃなく、悲しかったり泣いたりすることも増えました。
自分が実際に体験することで、初めて友人たちが泣いたり笑ったりしている「恋愛」というものを理解できたように思います。
というわけで、「恋愛」への目覚めの話、でした。